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<言挙げ>

 
まず、この「言挙げ」という音の響き、またイメージされる威勢のよさが気に入り、このページのタイトルとした。勿論この言葉の意味、使い方が、このページの趣旨に合致している事が一番の理由だと言える。
 
 言葉の本来の意味としては、「日本の神道において宗教的教義・解釈をことばによって明確にすること」また、「自分の意思をはっきり声に出して言うこと」と解釈していいだろう。
 
 著作活動等を行っている松原久子氏は、「日本人よ、外に向かって発言しなさい」と著書の中で訴えている。松原氏のいう「言挙げ」とは「言葉の弁明」であり「言葉による自国防衛」だそうだ。うむ、まさに私の考えとぴったり一致している。(氏の著書をじっくり読み進んで行くと一部分だが、私の考えている事との相違はあるが)
 
 そもそも、日本人は弁明する事や、発言することが、苦手なのだ。あるいは、弁明する事が、言い訳だと受け取られる、と考え、潔くない、恥ずかしい事だと考えるからではないか。もっと深く掘り進めるとすれば、正しい事、真実はいつか必ず後にわかる事、解明される事であると、信じているのではないか。最後は必ずわかってもらえる、相手に悪意はない、と考える。日本人は人がいい。性善説を前提に物事を考えているので、日本人同士であれば、このような考えでいつかは解決されていったであろうが、弱肉強食の世界へ目を向ければ、世界は悪意に満ちていると言ってもいいだろう。現在の日本人が考える各国との友好など、本来存在しない。利得関係があればこその友好である。その利得を得る為に各国は発言し、主張し、あるいは、友好だと訴えている。特に戦前の歴史がねつ造され、歪曲され、貶められ、謝罪や賠償金(既に解決済みだが)を求められる。このまま発言せず黙っていては、日本は本当にだめになってしまうだろう。だから「言挙げ」せよと私は言いたいのである。「世界人類皆平和」などありえないのだ。ただ私はそれを全面否定する立場ではない。次回以降に色々な歴史エピソードを交え、考えていこうと思うが、日本人の人のよさや、潔さ、実直で正直で恥を重んじるところ、本気で世界と友好を築こうと考えていた事などなど紹介したいと思っている。また、弁明できない現在の日本人は上記したような理由のほかに深い理由があるのだと、私は「言挙げ」したいと思っている。(と偉そうに書いていますが、私も現在勉強中です。試行錯誤しながら思考したい。)
 

みなさんは、先の大戦(第二次世界大戦)をなんと呼んでいますか?太平洋戦争?大東亜戦争?
おそらく、「太平洋戦争」という方がしっくりくる人が多いと思います。しかしそれは実は
戦後になってから言われだした呼称です。「大東亜戦争」という名称は開戦直後、日本政府が正式に決めた名称です。日本人が先の大戦をいうには「大東亜戦争」と言った方が正しいのです。
 ではなぜ「太平洋戦争」という名称が一般化しているのでしょうか。
 戦後占領軍(GHQ)によって「大東亜戦争」という名称の使用を禁じられ「太平洋戦争」というように強制されたからです。その目的は「大東亜戦争」の持つ歴史観を否定し、でっち上げられた「太平洋戦争」という歴史観を植え付ける為でした。「太平洋戦争史観」は、おおざっぱに言えば
何もかも日本が悪いとするもので、新聞、雑誌、ラジオ等で、喧伝され、今やそれが正しい歴史認識として定着してしまったのです。とくにNHKラジオドラマの「真相はこうだ」の放送では「南京大虐殺」などのでっち上げを信じ込まされ心に深い贖罪意識を植え付けられたのです。またこの歪められた歴史観で教科書も書き換えられ、日本の戦争はすべて侵略戦争であったとされたまま、現在まで、子供達の心を傷つけ、贖罪意識を植え付けられている、本当恐ろしい事である。
私もその教科書で勉強した一人だが。
「太平洋戦争」とはアメリカ側が呼んでいる呼称であるし、イギリスは「極東戦争」と呼んでいた。それぞれの国がそれぞれの呼称を使っている訳で、「大東亜戦争」と呼んで構わないのである。アメリカは太平洋、大西洋で行っていた戦争であるし、イギリスは極東地域での戦争であると認識していた、日本も地域的に日本、朝鮮、満州、中国を「東亜」としており、さらに南方地域を含め、「大東亜」とした。「大東亜戦争」と聞くとなんだかイメージが悪いと感じる人は、それ自体、洗脳されている所以なのだ。
 講話条約発効により、主権回復したが、その後も文部省は教科書検定で「太平洋戦争」という呼称は認めたままで、マスコミも好んで使っているとしか思えない。魂の奥底まで洗脳されたままなのが、今の日本だと思う。

私は右翼ではありません。軍国主義でも好戦的でもありません!
暴力嫌いだし、戦争もしたくありません。
誰かに少しでも日本の良さや、戦時中の逸話や靖国神社などの話すると、右翼のレッテルをはる。
国旗や国歌、靖国神社は軍国主義、右翼の象徴なんですか?少し冷静に考えてほしいと思ってます。国を愛していませんか?それは自分の故郷が好きな事と同じ事だと思いませんか。嫌いだというのであれば、国籍を変えてほしいです。こんなに自然豊かで、深い歴史、文化があって、治安もよく、人もいい。なにが嫌いですか。おそらく戦前戦時の時代が嫌いなんでしょう。でもあの戦争がなければ、今の平和はありません。当時の日本人だって、戦争はしたくなかったのです。座して滅びるのであれば、一か八かの戦いに賭けたのです。どうして戦争に至ったのかは、沢山の本がでてます、正しいのを選んで読んでほしいです。またこのページでも追々書いてみたいと思ってます。
戦争と聞いただけで毛嫌いするのでしょう。戦争アレルギーです。戦前悪というデマをいまだに、マスコミは垂れ流し、それが常識となっているんですね。それをことあるごとに見聞きしている我々は、それを信じてしまうのです。それは日本独特の左翼思考、自虐史観です。無意識にその思考に陥っているのです。マスコミが言っている事はまず疑え!と言いたいです。
自分の心に問いかけてみてほしいのです。こんなに優しい民族はほかにいないでしょ?自分の血統が、極悪非道な民族なんでしょうか。
 私もたしかに、左翼思考でした。マスコミのいうことを鵜呑みにし、学校の授業を疑う事すら想像できませんでしたから。なので学生のころは馬鹿な人間でした。そして何に対してもやる気がでない、不平不満ばかりでした。今の若い人や世の中が荒廃しているのは、これです。私も経験済みですから。日本は悪い国でした、残虐行為をしてました。そんな教育をされて、だれが喜ぶでしょう、何に対してもやる気がなくなり、活力がうせていく。自分の魂が萎縮し、泣いているのです。戦前と戦後の歴史を断絶され、記憶がすり替えられているのです。今真実を知らなければ、本当に日本は日本でなくなります。大げさではないです。無関心や無知は身を滅ぼします。
今の自分は今、ここにいるだけじゃないんです。脈々と受け継がれた血があって数々の試練を乗り越えた自分の親、じいちゃんばぁちゃん、そのじいちゃん、またその前の世代がいたから自分がいるんです。そして、未来に繋がって行くんです、そう思いませんか。その血がいま、汚され、貶められ、魂が泣いているんです。
私は真ん中にいます。私を右翼という人は私の左に立って、私を見ているんです、真ん中の私は左からみれば、右側に立っているように見えます。私の左側に立つのではなく、正面に向き合ってみてくれませんか。そうすれば、私が真ん中にいることが、簡単にわかるはずです。
 
 

 
正月に靖国神社へ初詣いきました。
その際に参拝記念樹を購入しました。
 
この記念樹は何種類もあるのですが、
すべて境内の木の実を取って苗に育てたものだそうです。
記念樹の領布は、戦車十三連隊長の吉松善三さんが
始められたそうです。
戦時中に内蒙古を拠点に転戦していた吉松さんは
「わが連隊の行く先々に、木を植えよう。英霊の
魂は木々に宿って興亜の地歩を守ってくれるだろう、
建設がともなわない破壊は聖戦ではない、荒れた支那の
大地に木を植えていこう」と考えて三千人の部下と
共に木を植え続け、なんと、中国大陸に四百万本もの
木を植えたそうです。なんとすばらしい事か。
孫文の命日には捕虜にも植樹をさせたり、敵味方問わず、
慰霊の為に木を植えたそうです。
中国人からも親しみを込めて「緑の連隊長さん」と
呼ばれていたそうです。
戦後、公職追放解除になってから、昭和三十四年から
六十年に九十歳で亡くなるまで、毎朝、赤羽の自宅から
靖国神社に参り、境内の銀杏の実を拾い発芽させ、
参拝者に配り続けたそうです。
「緑の木こそ人の心を安らかにする.木は平和の基ですよ、
靖国という字は『青(緑)を立てて国を安らかにする』と
いう意味になるでしょう」と話していたそうです。
現在は元海軍防空隊の阿久津孝三郎さんと、その娘夫婦が
意志を受け継ぎ奉仕活動を続けているそうです。
 
なんと美しく、すばらしいお話でしょうか。
日本人として誇りに思わずにはいられないです。
戦前の日本人がすばらしかったと私が思う所以は
こんなお話にも裏付けされます。
 
ちなみに靖国神社の初詣はやはり沢山の
参拝者でにぎわっておりました。
 

 
埼玉県さいたま市にある、青葉地蔵尊へお参りに行きました。
ここは、公園墓苑で、当時の理事長のご好意で土地が提供され建立されました。
 
青葉地蔵尊の由来をご紹介します。
終戦間近の満州での話、日ソ中立条約を不法破棄したソ連軍が満州に攻めこんで、満州は占領され、逃げ遅れた日本人など、その中で怯えながら過ごしていました。新京の病院の看護婦に、ソ連軍から看護婦を1ヶ月3名派遣するよう命令がくだされ、仕方なく、派遣、だが、1ヶ月たっても、帰ってこない、さらに3名追加の命令、仕方なく、派遣、、さらに3度、4度の派遣命令、だが、いっこうに看護婦は帰ってきませんでした。婦長さんは胸騒ぎをするなか、心配していた矢先のことでした。
突然、血だらけの看護婦が一人、逃げ帰ってきたのです。11発も銃で撃たれた跡がありました。息も絶え絶えの状況で驚くべき事を話ました。
「これ以上派遣するのはやめてください、派遣はうそで、ソ連軍の慰めものになっているのです、毎晩何人も相手させられ、拒否すれば殺されるのです、私は何も知らず次々と派遣されてくる同僚を見てなんとかしなければと
思い、逃げてきたのです」こう告げると、息を引き取ったそうです。
自分の命と引き換えに、この事を知らせたのです。
翌朝勤務時間になっても、だれも職場に現れず、胸騒ぎのした婦長さんは
彼女達の居室へ向かうと、22名の看護婦が合掌をした姿で自決されておりました。青酸カリの服毒自決でした。
遺書には「我々は敗れたとはいえ、敵国に犯されるのなら、死を選びます、命は無くなっても、魂は満州の地にとどまり、ふたたびこの地が日本に戻ってきたとき、私たちがご案内いたします」といった内容のものでした。
さすがにソ連軍も22名の自決に肝を冷やしたそうで、以後、派遣命令は
なくなったそうです。この自決によって、ほかの日本女性は守られたのです。
 
彼女たちの供養にこの青葉地蔵尊は昭和31年に建立されました。
 
日本は男だけじゃなく、女性も武士道精神をもち、凛とした精神を持っていたと思います。
 
当時の大陸にいた日本人の苦境に思いを馳せ、そして我々後世の日本人が
正しい未来を導くことができるよう、これ以上、日本が犯される事がないよう願いながら手を合わせました。
 
この青葉園は、ほかにも、乃木希典大将の銅像や、英霊慰霊塔などございました。当時の理事長さんは、崇敬心の深い方だったのでしょう。
 

 
1945年3月10日は東京大空襲のあった日でございます。
10万人の方々が無差別虐殺されました。
東京だけで、100回以上の空襲、その他、広島、長崎を除いて、
全国で合計30万人の非戦闘員の方々が空襲で亡くなられております。
連合軍は「焼夷弾」を使いました。読んで字のごとく、
日本家屋、非戦闘員を「焼き夷う」ため、開発された爆弾です。
 
私が作った曲で「記憶」というのがございます。
東京大空襲を歌ったものです。
 
************
記憶
 
東京上空に飛来したB29
344の大群だったと言う
誰もが眠りについていた未明のこと
空襲警報が鳴り響いた時 
もう既に東京は火の海だった
 
僕は疎開の町から数百キロ離れた空が
赤く染まるのを見ていたんだ
 
東京の空が真っ赤に燃える 全てを焼き尽くす
連合軍の絨毯爆撃 無差別虐殺 
男女の性も分からない程 一魂の炭と化す
はめられたんだ
 
円形型に猛火の壁を作り
退路を断つため人々を閉じ込めた
火の粉は舞い踊り人々に襲いかかる
川面を舐めるほど炎は激しく
無情に東京を飲み込んでいった
 
僕はすぐに悟ったんだ空の下何が起こっているのかを
東京の家族はどうしているのか
 
東京の空が真っ赤に燃える 逃げ惑う人をよそに
爆弾の雨は降り続く 二時間半もの間
百万発もの絨毯爆撃 人面獣心
人の血潮は流れ川となり 人の記憶に刻む
はめられたんだ
************************
 
当時、父の家族は東京に住んでいました。
祖父は仕事で、父は15歳、学校の勤労奉仕で地方へ行ってました。
父の家は全焼したそうですが、たまたま数件先のお友達の家だけが焼かれず残ったそうです。祖母はその家へ逃げ、難を逃れたそうです。
翌々日、父は東京へもどり、死体のころがる焼け野原の中を品川駅から
数時間かけて家にとぼとぼ帰ったそうです。友達と別れ際、
「明日生きてたら会おうな」といって別れたそうです。
焼け野原の光景は鮮明に憶えてるようです。
 
ちなみに、祖父は、飛行機のエンジンの設計技師でしたので、
戦後、公職追放にあい、苦労したらしいです。
 
被害にあった方々の無念、私は、私の曲をとおして、
心に「記憶」します。
 

 
ねんきん特別便が届いた。
私が50000件のうちに入っているとは夢にも思わなだ。
しかしこの「ねんきん」と平仮名にしている事が私は解せない。
最近何でも、平仮名にする傾向があり、大変不愉快である。
自治体名など「つくば」市や「さいたま」市など、多々ある。
奴らの言い分は「親しみやすく、子供にもわかるように」云々。
では、「埼玉県さいたま市~」となっている訳であるから、
子供に読めるようになどというのであれば、
「さいたまけんさいたまし」でなければならない。
どうして県は「埼玉」なのに市は「さいたま」としてあるのか
子供にどう説明するのか。
「ねんきん」にしてもイメージを曖昧にしようという
意図を感じ得ずにはいられない。
漢字を平仮名にする、その影響は左派勢力の意図があるのでは。
日本人の思考解体が目的ではないのか。
韓国のハングル語を例にすれば、ハングル語は日本語でいう
平仮名にあたる。平仮名しか読めなくなった最近の韓国人は
深く思考出来なくなったと言われる。
最近の小学校では、低学年の生徒に例えば「川崎亮太」君という名前の子が
いたとする。テストの回答用紙に自分の名前を「川崎亮太」と書いた
とする。テストの結果が戻ってきたら、名前に×があった。
答えは「川さきりょう太」だそうだ。
理由は「崎」「亮」はまだ勉強していないから、だそうだ。
ふざけるにもほどがあるのだ!こんなめちゃくちゃな指導を
しているから、日本人はふにゃふにゃになってしまうのだ。
日本語は、漢字、平仮名、片仮名を組み合わせた世界的に
類を見ない優れた言葉なのだ。
自分の名前や自治体名など自分に密着したものは、学校の授業で
まだやっていないなどと、ふざけた言い訳はせず、親や教師がまず
憶えさせなければならないことである。
しかし年金は大人の問題である、それを平仮名で送りつけてくる。
馬鹿にするにもほどがあるのだ!
 

政府の拉致問題対策本部が企画・制作だそうです。
http://www.rachi.go.jp/jp/megumi/index.html
めぐみさんの拉致がどんなものだったのか、家族の苦しみはどれだけのものなのか。
よく知らない人は拉致問題の入り口として、ぜひみてはどうでしょうか。
無料ダウンロードですから。

 
ルイビトンの「ダミエ」とか「モノグラム」のデザインはなんだか、日本的だと
思っていたが、ある情報誌にその事が書いてあった。
やはり、日本の市松模様などのデザインに大きく影響されたものだった。
ポール・スミスも藍染めや刺し子に影響されたデザインを取り入れていると、
本人が言っている。
あるいは、ティファニーも、輪島の漆や別府の竹細工、金箔、組紐、
そういったものをモチーフにしたりしているそうだ。
また、エルメスは「サムライ」という灰皿「キョート」「コウベ」というアクセサリー
「大名」「盆栽」「日光」などなど。
シャネル、ディーオールもまたしかり。
19世紀に、ゴッホやモネ、ルノワールが浮世絵などに影響を受けて、
名画を生み出しているのと、同じことなんですね。
 
エルメスは、我々は日本の伝統文化に新しい要素を取り込み生かしている、
しかし当の日本人は過去の継承になっていて、生かしていない、
と語っているそうです。
 
賢明な外国人は、気づいてる。
日本人も見直す時はとっくに来ているのだがなぁ。
 
余談ですが、
 
現在の洋服というのは、和服の要素がふんだんに盛り込まれている。
元来の洋服というのは、上下とも体に密着したものだったそうです。
室町時代の日本との交流で次第にゆったりしたものになった。
ズボンの折り目は袴の折り目を簡略化したもので、背広なんか、とくに
ダブルは羽織を連想せずにはいられないでしょ?
 

戦後の日本人の思考は占領時代に作られている。
まず、一番にまずい事といえば、歴史認識であります。
昭和二十年十二月八日から全国の新聞で連載された「太平洋戦争史」やNHKラジオで放送された「真相箱」などによって「日本悪玉史観」をとことん摺り込まれたのであります。
占領軍が日本人に贖罪意識を植え付ける為であります。ウォーギルトインフォメーションプログラムがそれです。
たとえば「南京大虐殺」なるものはひとつのいい例であります。
教科書などに掲載されたりしてますから、これがあたかも真実であると思い込んでいるのであります。こんな馬鹿げた事をずっと教え込まれている日本人が政治家になって、支那や朝鮮に行ってぺこぺこ謝罪したり、日教組の先生になって、一所懸命日本は悪い国だと、教えているのが今の日本です。「南京虐殺」が虚構であることは、すでに立証されていますが、そんな事は無視して反日マスコミはいまだに事実であるがごとき報道を繰り返すのであります。
「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と置き換えられたのも上記の通りであります。「太平洋戦争」と言うように強制されたのです。今や政治家さえも、「太平洋戦争」などと言っているのを聞くと情けなくなるのであります。
「大東亜戦争」は止むに止まれぬ「自衛戦争」です。そして当時アジアで独立国であったのは、日本とタイ、チベットだけでした。開戦するとアジアを植民地にしていた敵国を駆逐し、次々とアジア諸国を解放、独立の準備に取りかかったのです。しかし戦況が不利になりアジア諸国を敵国に奪われてしまい、後に敗戦しますが、一度自立の気概心に目覚めたアジアの国々、ひいてはアフリカ諸国までも戦後、立ち上がり、独立を勝ち取るのです。戦前と戦後の世界地図は一変します。もちろん日本のおかげで独立できたんだ、などと、世界に日本人が言う必要はありませんが、黄色人種でも、白人に勝てるのだということを、アジア、アフリカの人々が覚醒したのです。日本人自身の共有認識としては、持っているべきことだと思います。世界の国々が対等に外交を行えるようになったのは戦後です。日本国でさえ、日露戦争後、やっと不平等条約の解消にこぎつけたほどです。
ちなみに人種差別撤廃、人種平等を世界の公の場で初めて訴えたのは日本であります。
第一次世界大戦後のパリ講和条約において、人種平等の文言を盛り込むように主張します。
この訴えは賛成多数でありましたが、しかし、そこでもやはり、アメリカなどに反対され却下されます。今でこそ人種平等という事は世界常識でありますが、戦前までは、白人中心世界であった訳で、そんな事は通用しなかったのが、当時の状況であります。
とにかく日本は「侵略戦争」をしたなどというのは戯れ言であって、プロパガンダであるのです。侵略をしていたのは、戦勝国側であります。戦勝国や支那や朝鮮の指導者たちも、本気で日本が侵略したなどと思ってはいません、これは政治利用であって、本気でそう思っているのは、日本人だけであります。

日本の常識は世界の非常識と言われますが、各国の要人やジャーナリストなどが大東亜戦争(第二次世界大戦)を戦後、どう見ていたのか、彼らのコメントを集めてみます。1回目は日本人なら知らない人はいない、日本占領軍(GHQ)最高司令官マッカーサー将軍の発言です。これは今やかなり有名な発言ですね。
昭和26年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会での質疑応答の一部です。
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第二次世界大戦における対日戦略について
 
(ヒッケンルーパー上院議員)
 では五番目の質問です。中共に対し海と空とから閉鎖して
しまえという貴官の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた
際のそれと同じ戦略なのではありませんか。
(マッカーサー将軍)
 その通りです。太平洋において我々は彼らを迂回しました。我々は包囲したの
です。日本は八千万に近い膨大な人口を抱へ、それが四つの島の中にひしめいて
いるのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分が農業人口
で、あとの半分が工業生産に従事していました。
 潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまでに接したいづれ
にも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの地点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産してゐる時の方がより幸福なのだということ、
つまり労働の尊厳と呼んでもよいようなものを発見していたのです。
 これほど巨大な労働能力を持つているということは、彼らには何か働くための材料
が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。
しかし彼らは手を加へるべき原料を得ることができませんでした。
 日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、
羊毛が無い、石油の産出が無い、錫(すず)が無い、ゴムが無い。その他実に多くの
原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたの
です。
 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が「安全保障」の必要に迫られてのことだつたのです
 
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ちなみに原料の供給を断ち切ったのは、アメリカです。
「安全保証」のため、つまり、「自衛」であったと言う訳です。
 
また、別の場面でこうも言ってます。
「東京裁判はあやまりであった」と。

今回も、西欧人のお言葉を頂戴致しましょう。
 
オランダはインドネシアを330年に渡り植民地支配してました。
 
オランダ・サンティン・アムステルダム市長 現内務大臣
 「本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現した。即ち日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わった。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむことを止め、その誇りを取り戻すべきであります。」(1985年日本側傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時、行われた市長主催の親善パーティの歓迎挨拶)
 

 
所謂東京裁判で唯一全員無罪を主張したパール博士であります。
田中正明著「パール博士の日本無罪論」は読んで頂きたい書物のひとつです。
 
 
ラダ・ビノード・パール(インド、極東国際軍事裁判判事・法学博士)
 
  要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3~20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。それなのに、あなた方は自分らの子弟に、「日本は犯罪を犯したのだ」「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ」を教えている。満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。あやまられた歴史は書き変えなければならない。(昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)
 
 
ちなみに、こんなことも言ってます。
 
「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい。」
 
 
まさに私は、これが言いたいがために、生きているのです。
 

◆ククリット・プラモード     タイ 元首相
 
「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。さらに8月15日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である。われわれはこの2つの日を忘れてはならない。」
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日本のおかげで独立できた、とは日本側から言うのは傲慢なことで、
言うには忍びない事ですが、大東亜戦争が契機となり、独立に結びついたことは
戦前と戦後の世界地図をみれば明らかなことです。
戦前、アジア、アフリカで独立国がいくつあったのか調べてみてください。
 
戦中でも独立を承認したり、準備を進めていた事も、また事実です。
侵略するつもりがあれば、承認などするはずはございません。
 

 
マレーシア
ラジャー・ダト・ノンチック 元上院議員
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。」
 
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日本は占領したそれぞれの国で、国軍を創設し、教育を与えました。民族が自立するには
母国語の普及等の教育はどうしても必要でした。そして民族の誇りを惹起し、団結心を養い、己の国を守る為の国軍の準備を進めています。志半ばで日本は倒れますが、戦後沢山の国が独立を勝ち取る事ができました。
 

そもそも、なぜ、人の言葉を借りて、ここに掲載しようとおもったのか。それは私がいくら、日本の素晴らしさや、先の大戦の正当性を熱弁したところで、誰も真に受けず、自分の知識を疑おうとはしない。しかし、日本人である私の言う事は耳を傾けず、外国の言い分は良く聞くようなので、(それは日本はだめだ、悪い国だ、などの発言だが)それなら、外国人の言葉を借りようと思って、他国の要人の発言を集めようと思ったのである。
日本が残虐非道をやったのか、侵略をしたのか、否である。
そう信じる者は、自分で調べもしない。まず自分で調べてほしい。
日本の悪行の証拠はあるのか、否である。
証拠がないと断言出来るのである。
悪行をやっていない、証拠とは?悪行をやった証拠がない事が証拠なのである。
今の日本の混迷は、全て日本の自虐史観に帰結する。
歴史を見直さない限り、どんな政治をやろうとも、どんな政党が政権を取っても
日本は良くならないと断言出来る。
そういってみて、理解できる方は、すでに自虐史観から脱却しているお人であろう。
 
 
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今上陛下が皇太子として昭和五十年二月にネパール国王の戴冠式に参列された際、イギリス首席随員のマウント・バッテン元帥から、
 
 「過ぐる戦争中、私が東南亜連合軍総司令官として、インド・ビルマ戦域で対戦した日本軍将兵は、その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて、古今東西無類の精強でした。あのような素晴らしい将兵は、今後いずれの国にも生まれることはないでしょう」
 
と日本軍将兵を激賞する丁重な賛辞を捧呈された。
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◎グラバイ・デサイ インド弁護士会々長
「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお蔭で30年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している。」
    (1946年の軍事裁判に出廷した藤原岩市氏らに)
 
 
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田母神航空幕僚長が更迭された理由は、「日本は侵略などしていない、良い国だ」と
発言した事が、けしからん、という事で、クビになった。
世界中どこを探しても、こんな異常な国はない。与野党そろって、日本は悪い国だと
信じ込んでいる。いつになったら、日本の病気は治るのか。
この自虐史観から脱却しなければ、日本の未来はない。
 

 
ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)
 
大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。
 日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。 さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。
 
 
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政治的に日本の過去の正当性が証明されてしまうと、アメリカなどの戦勝国、支那や朝鮮は
国家経営が立ち行かなくなる。その意味に於いて、絶対に日本の正当性は認められないのです。
しかし、正しく歴史研究をするものは、どうしたって、真実が見えてくるのです。
国内の言論界といいますか、マスコミなどは真実を覆い隠しておりますが、決して、消し去られた訳ではございません。案外簡単に真実は沢山見つかります。普通に書籍も沢山でてます。
正しい本を見極めて読むことが大事です。
 

韓国はいまや、反日国家に転じましたが、このような良識ある韓国人もいらっしゃったんです。現在も、いらっしゃいますが、そのような発言をしたら、家族親戚血縁者がみんな袋だたきにされ、国内に住めなくなる、そんなお国柄のようです(日本も似たようなもんだけど)
 
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朴 鉄柱(韓国 平成2年1月逝去・68歳 、韓日文化研究所 昭和42年10月)
 
「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」
「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。”事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」
「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」
 

 
戦後の日本人の思考は占領時代に作られている。
 
天皇は日本国憲法第一条に規定されているように「日本国民統合の象徴」であります。
現代人はいい大人でも、天皇はどんな御存在であられるのか、何の為におられるのか、
わかっていない人が多いのではないでしょうか。天皇が日本にとってどれだけ重要な役割を果たしてきたのか、それどころではない、天皇そのものが日本そのものであると、言えるのです。
やはり占領期に、日本のよりどころであるこういった事も教える事を禁止されて今に至っているのです。
天皇とは外国で言う、王様とも違うし、エンペラーとも違う。外国語に訳すにはぴったりしたものが見当たらないと思います。天皇は古代より神々を祭り、「民安かれ、国安かれ」と祈りを捧げてきた大祭祀といえるでしょう。王様やエンペラーのように国民を武力支配するというイメージにはないのです。天皇を中心にゆるやかに束ねられているのが国民の存在です。
天皇は権力というものはお持ちでないのであります。権力でなく、権威をもって国を治めておられるのです。また国民は天皇を慕い、皇室の存在を守り続けてきたのです。
時代とともに天皇(皇室)の姿は変貌を繰り返しますが、明治以降においては、日本は立憲君主制をとり、天皇においても、憲法に制限される御存在となります。戦後教育を受けた我々は戦前の天皇は独裁者的なイメージを持つ方もいますが、憲法の定める所により、政治にも関与できないのです。余談ですが、戦後に日本は民主主義になったと思い込んでる人がいますが、先に述べた通り、明治より立憲君主制ですから、議会制民主主義で、選挙もありましたし、表現の自由もあったわけであります。
そして今も、立憲君主制であることに変わりはありません。あれ?日本は民主国じゃないの?と言う方もいると思いますが、議会制民主主義を採用した君主国であります。
国家の元首はだれでしょうか?
総理大臣ではありません、まぎれもなく天皇陛下その人であります。国家の代表とは元首であります。国家の代表で元首でありますから、国民の象徴なのであります。
 
総理大臣などの要人は天皇陛下の承認がなければ、その地位に就く事が出来ません。
内閣が成立した際には、天皇陛下より詔書を受けている様子など報道されますね。
また、あらゆる法律なども、天皇陛下のご承認においてはじめて成立する訳です。
国会を開くにも陛下が承認する訳です。
 
今上陛下におかれましては、現代社会に対応すべく、忙しく御公務をこなしております。
年間にすると千数百という膨大な数の書類に目を通され、ご承認の印を押されるのです。
総理大臣のそれより、激務であると言われております。
 

インドネシア 大統領内外政治担当特別補佐官兼長官 アリ・ムルポト推将
 
1977年マニラでの国際会議で韓国代表が日本を非難した事に対して
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「日本はアジアの光である、太平洋戦争(大東亜戦争)は
 アジア独立のための戦争であったゆえ、本来ならアジア人が
 戦うべきであったのに日本人が敢然と立ち上がって犠牲になった」
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インドネシアが独立を宣言したのは、1945年8月17日です。
この年の9月に日本の承認のもと、独立予定であったが、
日本が降伏したため、2日後に宣言をしました。
 
日本がイギリスを駆逐し、インドネシア国民軍を創設し4万人以上の
青年達を訓練しました。彼らが、独立宣言後、舞い戻ってきたイギリス軍と
4年間にわたる独立戦争をします。この独立戦争に2千名以上の日本兵士も
参加し半分以上の方が戦死しています。
 
独立宣言書の日付には「17805」と書かれています、
皇紀2605年8月17日という意味です。
この日付を見ただけで、おわかりでありましょう。
日本に植民地侵略やひどい事をされていたとしたら、
まさか皇紀は使われませんよね。
 

 
アジア諸国に多大なる迷惑をかけた、とかそんな事はデタラメなのです。
アジア諸国に日本は嫌われているというのもデタラメなのです。
中共と朝鮮以外はみんな親日なんです。
先の大戦で日本がアジアでどのような業績を残したか、各国自身知っているからです。
 
◎アーノルド・J・トインビー 歴史学者(イギリス)
 第2次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したといわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。(1956年10月28日/英紙「オブザーバーL)
 

 
■【シャフィー】(元マレーシア外務大臣)
『とくに私が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。「その頃、アジア諸国はほとんど 欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちを受けたか忘れ たのか?日本軍が進撃した時にはあんなに歓呼して迎えながら、負けたら自分のことは棚に上げて責任をすべて日本にかぶせてしまう。 そのアジア人のことなかれ主義が、欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか。」と。』
 
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現在の日本の政治家に一番足りないのは、歴史を知らない事だ。
歴史を知らないという事は、日本を知らないという事だ。
日本を知らないという事は、日本人ではないという事だ。
 
日本の政治家は何が目的で政治をしているのか、わからないのだ。
自分が何者なのか、考えた事がないのだ。
自分は今、偶然にこの土地に生まれた人間としか、頭が回らない。
今日本人が日本人として日本で暮らして行けるのは、偶然じゃない。
命をかけて、血と汗と涙を流し、日本を守ってきた先人がいればこそ、
今我々は生きているのだ。
 
無自覚が己を滅ぼす。
 

 
■【アラムシャ】(インドネシア陸軍中将)
『日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。 そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、アジア・アフリカの悲願 を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である。』
 
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当時の所謂、「村山談話」は日本が侵略戦争をして、世界に迷惑をかけた、お詫びをします、という談話であった。日本人が日本の歴史や使命を忘れ、占領中の洗脳教育のまま、主権回復後も、何十年もこの自虐史観を日本人自らが、日本人に刷り込んできた。今や全国民がこの自虐史観を常識的、良識的なものとして疑問を持つものは少ない。いや、少ない訳ではないが、それを取り上げる媒体が少ない。戦後のTVや新聞などのマスメディアは、占領中にアメリカから、その許可をもらった戦後利得者の中心であるし、そのメディアの中心を担ってきたのは、自虐を信じきっている日本独自の戦後左翼思想者達であるからだ。メディアは、教育界と同様に、その自虐史観を刷り込んできた張本人である。メディアの日本批判は終戦直後より、今まで一環して変わらない。まずメディアが日本を悪く言う事には、疑問をもってみなければならないのだ。